世の中に、当たり前は、ひとつもない/令和5年2月の法話
【担 当】 新美直照 師 〔愛知県蒲郡市 玉泉院 住職〕
【御 題】 「世の中に、当たり前は、ひとつもない」
特別養護老人ホームで働いている友人から聞いたはなしです。八〇代半で、同じような環境で生活してきた二人のおじいちゃんがいました。二人のおじいちゃんは二人とも利き手が不自由です。二人のおじいちゃんは、いつも自分の手を眺めています。一人は、自分の動かない手を・・・。もう一人は、自分の動く手を・・・。
動かない手を見ているおじいちゃんは、「どうして、手が動かなくなってしまったんだ、自分はもうおしまいだ」と、ネガティブに考えてしまいます。いつも、イライラしているおじいちゃんの周りには誰も近づきません。
それとは反対に、動く手を見ているおじいちゃんは、「この手だけでも動いてくれて有り難い。あともう少し頑張ってくれよ」と、ポジティブに考えています。常に明るく振る舞うおじいちゃんの周りには、多くの仲間が集まります。感謝の生活を送ることの出来る人は、幸せな生活を送ることの出来る人です。
感謝の生活とは、「世の中に、当たり前は、ひとつもない」ことに、気づいていくことだと、聞いたことがあります。
体調を崩したとき、私たちは、思い通りに動いてくれない自分の身体に、ついつい愚痴がこぼれます。「身体が言うことを聞いてくれない・・・」「身体が自分の身体でないみたい・・・」等々。しかし、「世の中に、当たり前は、ひとつもない」と考えることができると、自分は大きな勘違い、間違いをしているのではないかと、気づくことができます。
仏教には「諸法無我」という教えがあります。ひとことで言うと、「すべての物事は因縁によって変化するものなので、固定した実態はない」ということです。つまり、「自分の身体(いのち)は本来私のものではない」ということです。
にもかかわらず私たちは自分の身体を自分の自由にできる「持ち物」と考えていませんか?私たちは、何でも自分で出来ることが、当たり前だと考えてしまします。しかし、私たちは、自分一人では、何も出来ない愚かな人間なのです。
法然上人さまは、『一枚起請文』の中で、「智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし」と、仰いました。「智者のふるまいをせずして」とは、「知ったかぶりをするな」ということですが、法然上人さまは「自分の無力さ、愚かさに気づきなさいよ」と教えてくださっているのだと思います。自分の無力さ、愚かさは、仏さまからの、「智慧」に遇うことで、気づかせていただけます。
人の「知恵」は頭が上がり、仏の「智慧」は頭が下がると言います。人の「知恵」は、私たち自身が学び、理解する、学問の世界です。そして知恵がつけばつくほど、その知恵を、他人に話したくなり、だんだんと頭が上がってくるのです。しかし仏さまの「智慧」とは、仏さまが、私たちをやさしく照らしてくれる、救いの光です。そして智慧に遇えば遇うほど、自分の無力さ、愚かさに気づかされ、頭が下がってくるのです。
仏教は、学問の世界ではないのです。今まで知らなかったこと、気づくことができなかったことを、仏さまの智慧に遇うことで、正しい生き方を、教えてくださるのです。そこに、感謝が生まれるのです。
私たちは、常に感謝の気持ちをもって生活することが、大切なのです。「世の中に、当たり前は、ひとつもない」のですよ。
このたび、当布教師会より法然上人800回大遠忌記念事業として法話集「法然さまからのお手紙とお歌」を出版いたしました。
法然さまが「黒田の聖人(ひじり)」に宛てた一紙小消息を、管長猊下お手ずから、わかりやすく現代の言葉に置き換えていただき、それを一区切りづつ布教師会の布教師がお説教として書き下ろしました。 また法然さまの代表的なお歌を八首取り上げ、それをテーマとしたお説教も掲載しております。
この本のお求めは、≪総本山誓願寺公式サイト「出版書籍のご案内」ページ≫ よりご購入いただけます。(一部1,000円税込/送料別)
前へ
次へ
前の画面に戻る
facebook area