お彼岸と精進/令和2年3月の法話
【担 当】 中村真一 師 〔愛知県蒲郡市 覚性院 徒弟〕
【御 題】 「お彼岸と精進」
毎年三月は、春分の日を挟んだ前後三日間で、彼岸法要をお勤めしております。「お彼岸」とは、私たちが極楽浄土をより近くに感じるために自らも精進する期間だと言われております。善導大師は観経疏の中で「人、生まれて精進ならざれば、例えば、植木に根なきが如し」とお説きになられました。人間として生まれるということは、「言葉」という道具を、頂くということであり、善導様は、ただ、生きるのではなく、善く生きることが大切だとお示し下さいました。
今から17年前の、イラク戦争が始まった2003年に、大阪大学で「平和のための集中講義」が開かれ、その中で大阪女学院短期大学助教授(当時)の奥本京子さんがこのような話をされたそうです。
「二人一組になり、一人が自分の片手を固く握って下さい。もう一人はそれを開いてみて下さい」。
必至でふりほどこうと、教室中がざわつきました。しばらくして、
「『手を開いてください』って、言葉で伝えた人いますか」。
奥本さんのこの言葉に、「えっ」と戸惑う笑いが起きました。続けて奥本さんは、「なぜ力ずくでほどこうとしたのでしょう」と語りかけました。「平和的手段で紛争を超えるには、対話して相手と関わることや相手への想像力、創造力が必要なのです」。
このエピソードを、私たちの日常生活に置き換えて考えてみますと、たとえ物理的の暴力を用いることは無くても、怒りなどの「感情的手段」で相手を押さえつけようとしたりすることはあるのではないでしょうか?確かにこのような方法での解決は、一見簡単で、即効性があるかのように思えます。ですが、怒りを向けられた方は、ただ怖くていいなりになっているだけで、本当の意味で納得することはできません。それに比べて、「対話」による解決は、手間も時間もかかります。話し合いなんてしても無駄だと感じてしまうかも知れません。しかし、言葉を使わずこじれてしまった問題は、途方もなく厄介なものになってしまいます。
そして、この集中講義の最終日に、ある初老の男性がこう語っていたそうです。
「人間が平和的なものかどうかはわからない。でも、平和は自然なものではなく、意識的に作っていかないとだめだとわかった」。
法然上人のお言葉に「行は一念十念なをむなしからずと信じて無間に修すべし」と御座います。たとえ、一遍や十篇の念仏でも無駄ではないと信じて、絶え間なく続けていくことが肝心だとお示し下さいましたが、私たちの日常生活の中での「行」とは、対話を通して、お互いの考えの違いを、すり合わせていくことではないでしょうか?
このたび、当布教師会より法然上人800回大遠忌記念事業として法話集「法然さまからのお手紙とお歌」を出版いたしました。
法然さまが「黒田の聖人(ひじり)」に宛てた一紙小消息を、管長猊下お手ずから、わかりやすく現代の言葉に置き換えていただき、それを一区切りづつ布教師会の布教師がお説教として書き下ろしました。 また法然さまの代表的なお歌を八首取り上げ、それをテーマとしたお説教も掲載しております。
この本のお求めは、≪総本山誓願寺公式サイト「出版書籍のご案内」ページ≫ よりご購入いただけます。(一部1,000円税込/送料別)
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