平成20年6月の法話/田中宗龍師
【担 当】 田中宗龍 師 〔愛知県西尾市 阿弥陀院 住職〕
【御 題】 「無題」
先日、腰痛の持病をお持ちの檀家の方が「家の者ときたら本当に薄情なんですよ。 優しさも、労りの気持ちも全く感じられません。 もう腹が立ってしょうがない。 」とこぼされました。
私は、「そんなことないですよ。 いつも優しく接しておられるようじゃないですか。」と当たり障りなく答えると、「そんなもんじゃないのよ。」と返されました。
取り付く島もないといった体で、私も言葉が継げませんでした。
周りの者が優しく労わっているつもりでも、当の本人が満足しなければ、優しさも労わりも無いに等しくなってしまいます。
私はここに一つの誤解があるように思います。
そもそも、優しさや労りというものは、求めるものではなく与えるものであると考えます。 求めに叶うお与えをするということは中々に難しいものです。それが、苦痛や苦悩に苛まれている方にとってみれば尚更です。
この苦しみや悩みというものは、私たちに本来備わっている大切なものを覆い隠してしまいます。 苦しさゆえに、「もっと優しくしてほしい」、「もっと労わってほしい」という貪りの心が顕わになり、「どうしてわかってもらえないか」という不満から瞋りの心が発ると、それが愚癡となって、知ってか知らずか言葉や表情にあらわれます。
するとやはり、周りの家族の方も気持ち良いものではありません。 ついつい売り言葉に買言葉、言葉が荒くなったり、等閑になったりしてしまいます。 歪は増すばかりです。
これを貪欲・瞋恚・愚癡といい、善心を妨げる三悪、又は三障といいます。
さしずめ、この檀家の方は、腰痛の苦しみから、自分中心の心が強くなり、 周りの人の優しさに気づく謙虚な心という善心を覆い隠してしまったのでしょう。 苦痛や苦悩に苛まれている時こそ、ゆっくりとお念仏申し上げ、仏さま、 ご先祖さまの御心に想いを馳せたいものです。 「皆、仲良く幸せになってくれよ」と願っておられるその想いに触れたならば、謙虚な心を思いだし、今まで見ようとしなかった優しさや、労りに気づくことができる筈です。
合掌 十念
このたび、当布教師会より法然上人800回大遠忌記念事業として法話集「法然さまからのお手紙とお歌」を出版いたしました。
法然さまが「黒田の聖人(ひじり)」に宛てた一紙小消息を、管長猊下お手ずから、わかりやすく現代の言葉に置き換えていただき、それを一区切りづつ布教師会の布教師がお説教として書き下ろしました。 また法然さまの代表的なお歌を八首取り上げ、それをテーマとしたお説教も掲載しております。
この本のお求めは、≪総本山誓願寺公式サイト「出版書籍のご案内」ページ≫ よりご購入いただけます。(一部1,000円税込/送料別)
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