出世間/令和6年9月の法話
【担 当】 村松憲道 師 〔愛知県蒲郡市 真如寺 住職〕
【御 題】 「出世間」
お坊さんになることを出世間といいます。いわゆる世間の価値観を捨てて生きてていくことも出世間と捉えてよいと思います。
この文章をよんでくださっている間だけでも皆さまに出世間をしていただきたいと思います。
一般的になんとなく心が広いというと褒め言葉で心が狭いというと批判的な言葉になりその人の寛容度やその人の器の大きさなどを表す表現として使われています。
心が広い、狭いといいますが、あなたの心は何平米でしょうか??畳一帖分でしょうか?アメリカ大陸位でしょうか?価値を測る基準にお金をあてはめると坪単価いくらでしょうか?
広くても需要がなければ単価はさがり、狭くても需要があれば単価はあがります。
こう考えるとあんまりしっかりした基準ではないなあとおもいます。
しっかりした基準でないうえに、本当は心という価値のつけられないものに面積という評価基準を当てはめ広い、狭いで心に価値をつけます。そんなことを他人や自分自身にしていないでしょうか??
仏様は私たちの本来持っているさまざまな力の象徴と言われています。しかしながら人間はその力に気づかない為有効活用た出来ずにいたり、持っているにも関わらず世間の常識や価値観に囚われ発揮出来ずにいます。
例をあげると千手観音菩薩様は千の手を持つ観音菩薩様で、千は無限を意味しその無限の手によって人々を救う仏様です。
私たちは手を含む身体を使いたくさんのものを創造したり行動してきました。それによって人類は発展してきました。その無限の力の象徴こそ千手観音菩薩様です。
仏様を拝んだり、念仏をする意味は何か仏様から特別な力をいただくわけではなく、世間の常識から一端はなれ本来持っている私達の力に気づかせていただいたり、触れる時間であると思います。
お米を食べるとき、すぐに胃の中に入れず、沢山噛んでいると味が変化してきます。それと同様にあるていど時間や回数をこなすことは必要かもしれません。
しかしながらそこには私達が持つ本当の力や誰にも左右されることのない価値が隠れています。お米でいえばたくさん噛んだ後の味は噛んだ人にしかわかりません。
私達が持つ本来の力に気づいたならば、仏様になったと言って良いかもしれません。また世間に帰って来ていただき、世間に縛られた価値観をもつ私達のお手本となって下さい。
ご拝聴きいただきありがとうございました。
このたび、当布教師会より法然上人800回大遠忌記念事業として法話集「法然さまからのお手紙とお歌」を出版いたしました。
法然さまが「黒田の聖人(ひじり)」に宛てた一紙小消息を、管長猊下お手ずから、わかりやすく現代の言葉に置き換えていただき、それを一区切りづつ布教師会の布教師がお説教として書き下ろしました。 また法然さまの代表的なお歌を八首取り上げ、それをテーマとしたお説教も掲載しております。
この本のお求めは、≪総本山誓願寺公式サイト「出版書籍のご案内」ページ≫ よりご購入いただけます。(一部1,000円税込/送料別)
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